フリフラ雑記帳

フリップフラッパーズの考察、その他をダラダラかくブログです。不定期更新。

魔女の卵の目玉焼き

目玉焼きとは、固焼きですか?それとも半熟ですか?はい、中沢君っ!

~早乙女和子~

 

 

グリーフシードとは

 『魔法少女まどか☆マギカ』(以下まどマギ)は、普通の中学生であるまどかがひょんなきっかけから奇跡を売り歩くキュウべぇと契約し、魔法少女として悪の化身である魔女と闘う物語である。あr・・・である。魔法少女たちは、魔法を使うたびに”穢れ”を宿してしまう。

 さて、まどマギには”グリーフシード”なるアイテムが登場する。どうやらこれは魔女の卵らしく、十分に成長し力をつけた魔女が孕んでいるようだ。グリーフシードは一定量の穢れを吸着させ、払うことができる。

 

グリーフシードは本当に卵なのか

卵とは

 ところで、卵とは一体何であろうか。虫は卵を産む。魚も卵を産む。トカゲや鳥も卵を産むが、ヒトは卵を産まない。

 卵とは、有性生殖をおこなう生物の配偶子のうち、大きいもののほうのことを指す。配偶子というのは読んで字のごとく配偶される因子、つまり生殖細胞のことで、二つの配偶子が接合して新しい個体が生まれる。一般的に卵とかいてタマゴとよませるものは、これのうち比較的大型で、体外に産み出されるものをいう。平たく言ってしまえば、卵を産む生物には、オスとメスが存在するはずなのである。

本編中におけるグリーフシードに関する言及

2話:マミ「これがグリーフシード。魔女の卵よ。」
   マミ「運が良ければ時々魔女が持ち歩いてることがあるの」
   QB「大丈夫。その状態では安全だよ。むしろ役に立つ貴重なものだ。」
   マミ「私のソウルジェム、ゆうべよりちょっと色が濁ってるでしょ」
   マミ「でも、グリーフシードを使えば、ほら」(ソウルジェムがきれいになる)
   マミ「ね?これで消耗した私の魔力も元通り」
   マミ「前に話した魔女退治の見返りっていうのがこれ」

3話:病院にグリーフシードのトゲが刺さっており、孵化しかかっている。孵化すると結界が展開されるらしい。

5話:QB「この結界は、たぶん魔女じゃなくて使い魔のものだね」
   杏子「見てわかんないの?あれ魔女じゃなくて使い魔だよ?グリーフシード持ってるわけないじゃん」
   杏子「だからさ、四五人ばかり食って魔女になるまで待てっての。そうすりゃちゃんとグリーフシードもはらむんだからさ」

6話:QB「これでまたしばらくは大丈夫だ」
   さやか「うわ~真っ黒」
   QB「もう危険だね。これ以上の穢れを吸ったら魔女が孵化するかもしれない」

7話:浄化をしないで大量の魔法を使い、真っ黒に濁り切ったさやかのソウルジェム
   さやかの絶望とともにソウルジェムはグリーフシードへと生まれ変わり、魔法少女は魔女へと変貌する。

8話:ほむら「彼女のソウルジェムはグリーフシードに変化した後、魔女を生んで消滅したわ」
   ほむら「この宝石が濁り切って黒く染まるとき、私たちはグリーフシードになり、魔女として生まれ変わる」
   ほむら「それが、魔法少女になった者の、逃れられない運命」

まとめると、
・グリーフシードは魔女の卵で、これから魔女が生まれる。
・魔女を倒すとグリーフシードを落とす。
・グリーフシードは魔法の使用により蓄積したソウルジェムの穢れを浄化することができる
・普段はグリーフシードは安定した状態だが、ソウルジェムの穢れを一定量以上吸着させると孵化する。
・魔女の従えている使い魔は人を食って成長すると、グリーフシードをはらんだ魔女になる。
ソウルジェムを浄化しきれなくなったとき、ソウルジェムはグリーフシードに変化し、魔法少女は魔女となる。

公式ホームページにおける言及

ここで、公式ホームページの用語集*1もチェックしておこう。

倒した魔女が時々落とす魔女の卵。魔法少女が消耗した魔力を回復させるために必要なもの。

また、成長するとグリーフシードをはらむ使い魔についてはこのように開設されている。*2

魔女から分離した下級の怪魔。親元の魔女の結界で増殖し護衛役を務めるが、やがて独自の結界を張って自立するようになる。さらに成長すると元の魔女と同じ姿にまで成長する。

想像される生活環

 以上のことより、次のような生活環が想像される。

f:id:kokeshi_flifla:20220418043033p:plain

 ぱっと見でわかることとしては、これはどうやら無性生殖らしいということである。確かに、アブラムシや一部のハチ(クリタマバチなど)のように本来有性生殖をおこなう種がメスだけで生殖をおこなう例もある。これは単為生殖と呼ばれ無性生殖とは区別されるのだが、作品中でオスの魔女というのは確認できない。

 紛らわしい点としては魔法少女が元は人間のメスであったという点で、この性質が魔法少女、および魔女にも引き継がれているのだとするとたまたまオスが存在しないことに起因する単為生殖となるのだろうが、契約による魔法少女への変身が全く別の生き物への変化だとすると無性生殖ということになる。あるいは、魔女への変貌時に性別を失っている可能性もある。そうだとすると、仮に契約によって男性が魔法少女になることがあったとしても、魔女の生殖は無性生殖ということになる。個人的にはこの線が一番濃厚そうだと思っている。

 使い魔に関しては、これは完全に無性生殖である。なぜなら、使い魔は成長すると「元の魔女」になるからである。遺伝的なミキシングは起こっていないとみていい。そして重要な点としては、使い魔は「元の魔女とは見た目が全く異なる」という点がある。つまり使い魔は遺伝的には同一であっても魔女のクローンではなく、別の存在として生活環の中に存在しているのである。また、使い魔はグリーフシードからは生まれない。グリーフシードから生まれるのはあくまで魔女であって、使い魔は魔女から生まれるものである。この辺が単為生殖の生物と異なる点で、単為生殖はあくまでも一つの生活環をベースに回っているのに対し、魔女は二つの生活環を持っているのである。

実在の生物で似た生活環を持つもの

 魔女のように、いくつかの生殖方法を状況によって切り替える生き物というのは現実にも存在している。先に挙げたアブラムシやクリタマバチもそうだが、種の単位ではなくもっと大きなグループでそのような戦略をとっている者がいて、これが実はカビである。

f:id:kokeshi_flifla:20220418051217g:plain

子嚢菌の生活環、カワキコウジカビ(Eurotium)、文部科学省のホームページより*3

 カビの類は一般に有性世代と無性世代を持っていて、環境によってこれらを使い分けている。これは魔女とグリーフシード、使い魔の関係に酷似している。

形状から考えるグリーフシード

 ソウルジェムの色や形が魔法少女によって様々異なるのに対し、グリーフシードはどの魔女でも形は共通である。黒い球状の物体で、一端にトゲが生えている。

f:id:kokeshi_flifla:20220418053515p:plain

グリーフシード*4

 3話の描写から考えると、このトゲは地面や壁などの場所にグリーフシードを固定するための機能があるようだ。ある場所に固定するためにトゲを用いるというのは、植物のタネを思わせる。例えば、タンポポの種にはトゲがあるが、これは地面に接地した際にしっかり地面に食いつき、再び風で飛ばされないようにという意味がある。

 そもそもグリーフシードは「シード」という名前ではないか。

 あまり卵らしいデザインではないと思う。

結論

 グリーフシードは卵というよりはカビの胞子に近いものだと考える。少なくとも一般的な動物の卵とは一線を画す存在ではありそうだ。

商品レビュー~劇場版まどマギBD完全生産限定盤~

「目に焼きつけておきなさい、限定版になるってそういうことよ」

暁美ほむら

 

ご無沙汰しております、こけしです。

この連休中に 散財 奮発してまどマギのBDを購入してしまったのですが、言葉を失い半日ほどニヤニヤするほど良い買い物だったので記事にしてみました。

 

 

 円盤の商品展開

 『魔法少女まどか☆マギカ』とは2011年に放送されていたテレビアニメである。長いタイトルであるため、しばしば略称である「まどマギ」と呼ばれている。本ブログ内でも特に断りがない限りこの略称を使わせていただく。

 このまどマギだが、テレビシリーズを前編と後編に分割し、リチューンした劇場版が2012年に公開された。そしてこれは翌2013年に公開された完全新作劇場版の前振りでもあった。よって、最終的に公開された映画は三本である。

 

 映像商品としてはテレビアニメ版のDVDとBDが、それぞれ特装版と通常版が発売され、また御多分に漏れず全編をディスク3枚に分割した北米版のBD・DVDボックスが存在する*1

 また、劇場版に関しても、BDとDVDの両方において特装版と通常版が存在するようである*2

 

 筆者が購入したのは劇場版と新作劇場版の特装版BDである。

 

 

 

商品の外観

 特装版というだけあって、装丁は非常に豪華である。

 まず外箱であるが、これは表面に一か所、裏面に二か所穴が開いていて、デジパックを中に収納すると(デジパックに描かれたヒロインの)顔が現れるようになっている。

f:id:kokeshi_flifla:20180717222318j:plain

箱表面。アルティメットまどか魔法少女たちが抱かれるという、うっかり泣いてしまいそうなデザインになっている。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180717222357j:plain

同裏面。

 

 中のデジパックの絵も秀逸で、これはテレビアニメ12話終盤相当、劇場版で言えば永遠の物語の終わりのほうの、改変後世界の夜にたたずむほむらである。表面加工は箱がマットな感じであるのに対し、写真のような光沢があって美しい。画像では筆者の技量不足で表現できないのがなんとも悔やまれる。

f:id:kokeshi_flifla:20180717221647j:plain

デジパック表面。この表情がまた何とも言えず良い。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180717221911j:plain

同裏面。


 ディスク本体もまた凝っている。劇場版新規書き下ろし曲のサウンドトラック表面の模様はほむらの盾の模様になっている。

f:id:kokeshi_flifla:20180717222912j:plain

こちら側二枚が本編BDで、手前から始まりの物語、永遠の物語の順である。一番奥、三枚目のディスクが劇場版オリジナルサウンドトラック。

 特典で小冊子がついてくるのだが、これがまた魅力的である。

 内容としては、

  1. ストーリー紹介
  2. メインスタッフ座談会
  3. アートボード
  4. 絵コンテ集
  5. 原画集
  6. イラストレーション
  7. オリジナルサウンドトラック トラックリスト
  8. 虚淵玄 メッセージ
  9. 蒼樹うめ スペシャル描き下ろし4コマ劇場[劇場版]
  10. クレジット

 を収録している。

f:id:kokeshi_flifla:20180717225610j:plain

ブックレット。ブックカバーに穴が開いており、外箱と同じようにカバー裏のキャラクターの顔がのぞけるようになっている。窓の部分は単純に穴が開いているのみで、フィルムなどが貼ってあるわけではない。これは外箱も同様である。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180717230052j:plain

カバーを外したところ。


 叛逆の収録内容もよく似ており、ディスク三枚組+ブックレットであるが、こちらは本編BD+特典映像BD+オリジナルサウンドトラックという構成である。外箱も、始まり/永遠の方はかたい紙製なのに対し、叛逆はワックスドコットンのような表面加工である。

 叛逆に関しては、Amazonのほうに詳細できれいな写真が掲載されているので、こちらを参照されたい。

 

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/A12mZxKIPRL._SL1500_.jpg

 

 

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61hDzgsLYNL._SL1000_.jpg

 ↑外箱後方に屏風のように伸びているのがデジパックで、左側がパック外側、右側が内側のディスク収納面である。こちらの外箱にも大きな窓が開いており、デジパックを収納するとアルティメットまどかに導かれるほむらが額縁に収まる。デジパックを出した状態だと、窓からは内側に描かれたイヌカレーパッチがのぞく。

 

特装BDを買うことのメリットとデメリット

 個人的に感じた、特装BDを購入することのメリットとデメリットをまとめると、次のようになった。

 

メリット

  • ディスクチェンジが二回で済む
  • 劇場の画面の大きさでの視聴に耐えうるように作画が修正されている
  • 箱やブックレットといった特典が付いてくる
  • 日本語字幕付き
  • 構成や劇伴が一部オリジナルと異なっており、テレビアニメ既視聴者であっても新鮮に楽しめる工夫がなされている
  • 5.1chサラウンド対応

 

デメリット

  • 劇場版に再編集する関係上尺をいじっており、一部のセリフやシーンはカットされている
  • 構成や劇伴がオリジナルと一部異なる
  • (できるだけ違和感をなくすよう努力はなされているものの)元がやはりテレビシリーズであるため、元の一話に相当する範囲で起承転結が存在し、全体として冗長になり、実際の時間よりも長く退屈に感じてしまう
  • 豪華な装丁ではあるものの、タフユースに耐えるかというと多分違う

 

 

 

メリット

 順を追ってみていく。まずディスクチェンジの回数であるが、これは他の円盤商品と比べてのメリットである。アニメを見る人間なら覚えがあると思うが、ふつうDVDやBDというのは、テレビシリーズの場合、2話もしくは3話ごとに収録する。全12話構成の場合2話×6巻構成が一般的である。

 つまりシリーズを通しで見ようと思った場合、5回もディスクチェンジをしなければならないということであり、ご想像の通りこれは実に面倒くさい。これが劇場版のBDだった場合、テレビシリーズ相当の部分は一回で済み、叛逆を含めてもわずか二回のディスクチェンジで映像化作品をすべて網羅できる。北米版ディスクであればテレビシリーズの内容で、かつディスクチェンジは二回(叛逆を含めれば三回)で済むが、これはリージョンコードが違うためリージョンフリーのプレイヤーを使う必要がある*3

 比較対象を円盤商品に限定したのは、dアニメストアなどのネット配信であればそもそも一度もディスク交換など行わずに全編自動再生できるからである。

 

 次に作画についてである。テレビシリーズを劇場版に再編集するにあたって、いくつかのカットは作画が変更されたり、修正されたりしている*4。これまでの商品でも、テレビ放送版、テレビシリーズDVD版、BD版でそれぞれ細かい作画が違うらしいのだが*5、こと劇場版に関して言えばスクリーンに引き伸ばした状態でも見られるようになっている。テレビシリーズの内容を引き継ぐものとしては最終製品であるため、ここは大きいと思われる。

 

 特典に関しては言うまでもないのでとばすとして、字幕である。恐るべきことに、この商品は1.日本語 2.英語 3.繁体中文 4.韓国語 5.フランス語 6.スペイン語の六か国語対応の字幕付きである。特にデフォルトで日本語字幕がついているのはセリフ起こしの際に重宝しそうだ。

 

デメリット

 次に、デメリットについてである。先に述べた通り、始まり/永遠はテレビシリーズの再編集版で、内容としては始まりの物語が第1話~第8話相当、永遠の物語が第9話から第12話相当*6であるが、前編に関して言えば、これはテレビアニメを30分、劇場版を120分とすると実に2倍の圧縮率である。

 また、大筋のストーリーとしてはテレビシリーズと同じではあるものの、話の前後や劇伴の変更が見られ、全体としてまったく新しい作品に仕上がっている。これはテレビシリーズ既視聴者にとってメリットであるともデメリットであるともいえる。

 メリットとして見るのなら、先に上げた作画の問題があるのだが、演出に関して言えばこれはどれがいいとかいうことはなく、完全に個人の好みになってくるのでデメリットにもなりうる。

 特にテレビシリーズにおいてはオープニングやエンディングが効果的に用いられていただけに、これが欠けてしまうと少々物足りなさを感じてしまう。

 もちろん、映画として再構成するにあたってこの辺りには細心の注意が払われているのだが、やはり映画として一から作られたものと比較すると違和感を覚えてしまうのもまた事実なのである。

 

 最大のメリットである装丁に関しても諸刃の剣で、美しい装丁はタフユースには耐えそうにない。

 デジパック自体紙なので、プラスチック製のいわゆるBDケース(TSUTAYAのレンタルコーナーにおいてあるような)との耐久性は比較するまでもない。特に始まり/永遠のパッケージにおいて、デジパック表面は写真紙のように非常に美しい仕上げになっているのだが、これが箱の取り出し口付近に、外側から巻き込むようにして存在する表紙の”のりしろ”部分(入り口がこの部分だけ数ミリ狭くなる)に干渉して細かい傷がついてしまうのが気になる。頻繁にディスクを取り出して映像を楽しみたい人は別途ディスクケースを用意するか、あるいは最初から通常版を買ったほうが良い。

 ただし、夜な夜な箱からデジパックを取り出して「ほむぅ・・・」とかいいながら撫でまわしたりする場合にはこれは効果がない。

 

それはそれとして

 総合的に見て非常に良い買い物であったと思うし、これなら倍額出しても買うだろう。買って損をするような商品ではない。そもそもこれはコレクターズアイテムであるため、ディスクを頻繁に取り出して視聴するような使い方のほうが間違っているのである。

 まぁ、僕はブックレットは資料として重宝するし、映画は映画でしつこく見るのだろうが・・・

 

 とりあえず通常版と限定版両方買っておけば間違いないのではないだろうか。

*1:国内版はディスク6枚。

*2:なお、ここまでの商品に関する情報はすべて2018年7月17日現在Amazonにて確認できる情報。

*3:商品情報によると北米版まどマギはリージョン2であるため、PS4でも再生が可能だと思われるが、実際に試したわけではないので情報としては不確かである。

*4:劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語/[後編] 永遠の物語 Material  Book(限定版付録)

*5:円環ピクトリアル No.7【特集】TVシリーズ放送版とパッケージ版の比較(2017年8月、C92にて入手)

*6:劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編] 始まりの物語/[後編] 永遠の物語 Material  Book(限定版付録)

フリップフラッパーズ考察①'〜補足〜

 「不完全だったものを完全に近づけるために行う後づけ作業だ」

 ~補足について、折木奉太郎

 ご無沙汰しております、そんなわけで、補足です。

 

 

 

形を変えて、同じものが何度も登場する

 前回の記事で『PIは主体たる万物の捉えた現実世界の一側面で、これは現実世界そのものとは異なるある種の虚構と言えるが、しかし構造的に現実世界は誰にも観測出来ないうえに、本人(?)に知覚出来るのはその主体が構築するPIのみである。したがってPIは本人にとっての現実世界である。』といったような旨のことを述べた。

 

 すなわち、私たちは色眼鏡越しに世界を見ている訳だが、この眼鏡は実のところ外すことが出来ない、ということである。

 

 作中では、『同じものが形を変えて度々登場する』という手法で、このことを効果的に表現している。

 

 

ブーちゃん

f:id:kokeshi_flifla:20180411223949p:plain

 ブーちゃんことTT-392。通常形態はこんな感じ。1話より。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180411222317p:plain

 初見時は気づけなかったシリーズその一。バギー側面の丸い構造物の配置が踏襲されている(本来はアーム格納庫のカバー)。平べったく四角い本体に長く突き出た柄と、こちらはまだ原型がある。6話より。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180411222345p:plain

 あのさぁ・・・。初見時は気づけなかったシリーズその二。というかこれは前回マラソンをした時に初めて気づいた。もはや黄色いことぐらいしか合っていないが、丁寧にもボディに型番が書いてある。13話より。 

 

 

押し入れ

f:id:kokeshi_flifla:20180411222448p:plain

 この押し入れは、トマソンエリアを抜けた先にある、フリップフラップが誇るPI転送施設である。絵本「おしいれのぼうけん」が元ネタらしい*1クレーム来ないのかこれ 2話より。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180411222629p:plain

f:id:kokeshi_flifla:20180411222636p:plain

f:id:kokeshi_flifla:20180411222647p:plain

 そんな押し入れにも別の形態が存在する。あるPIを守るためロボットに搭乗することになったパピカとココナ。その搭乗孔がこの押し入れなのだ。っていうか今気づいたけどこれ自転車のサドルと洋式便所じゃん。8話。 

 

f:id:kokeshi_flifla:20180411222656p:plain

  8話は4話に勝るとも劣らぬフリフラ屈指のえっち回である。是非とも視聴してほしい。

 

ユクスキュル

f:id:kokeshi_flifla:20180411223604p:plain

 言わずと知れた本作の良心、ユクスキュル。こちらは通常バージョン。かわいい。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180411222850p:plain

 『誰?』

 ユクスキュルはしばしばPI内でこのようないかつい容姿をとる(声も渋い)。

 こうしてみてみるとあまりロクな目に逢っていない気がする。 

 

f:id:kokeshi_flifla:20180411222917p:plain

 かわいいうさぎさん!

 おそらく全視聴者がド肝を抜かれたであろう衝撃のラスト。

フリップフラッパーズ考察① ~そもそもピュアイリュージョンとは何か~

 イントロダクションを書くのに思いのほか時間がかかってしまいましたが、この記事からようやっと考察らしい考察となります。

 やっと本題に入れる・・・

 

初めに

 本ブログはテレビアニメ『フリップフラッパーズ』に関する考察を取り扱っており、記事内容にはネタバレを含みます。ここで述べられている考察はすべて個人の見解であり、公式による情報では一切ないことをここに明記します。

 

 

ピュアイリュージョンとは何か

 フリップフラッパーズというアニメは、パピカとココナという二人の主人公が「ピュアイリュージョン」なる世界を旅する物語である。ではこのピュアイリュージョン(以下PI)とはいったい何なのだろうか。

 作品の根底に横たわっているものということもあり、特に何度も視聴している人からすれば「いまさら」「ある種あって当たり前」であるのは百も承知であるが、しかし同時にだからこそこの作品を語るにあたっては避けて通れないものだとも考える。

 愚昧ながら、考えを述べさせていただきたい。

 

 本編中での言及

 冒険中、正体不明のホールに吸い込まれてしまったパピカとココナ。帰還後にその正体をヒダカに問い詰める(7話)。

ココナ「ヒダカさん教えてください!」
パピカ「先輩が変!」*1
ココナ「ピュアイリュージョンってなんですか?!」
ココナ「私たちが入った穴って、」
コ・パ「何なんですか?!!」

 

 これに対しヒダカは以下のように答えている。

ヒダカ「つまり!」

ヒダカ「ピュアイリュージョンはサブジェクトとのインタレレーションシップによる、一種のパーセプション、イデアワールドだと考えられている」

ヒダカ「それも人類に限らず、ありとあらゆるエグジスタンスと言っていい」

ヒダカ「これは世界にインパクトをもたらすミッションだ」

ヒダカ「我々は常にイニシアチブをとりながらフルコミットしてドライブ!させなければならない」

 

 ココナ「まだ難しいんですけど・・・」

 

 まだ難しいので平文に直す。

 

「つまりピュアイリュージョンはsubject(対象)とのinterrelationship(相互関係)による一種のperception(知覚)、idea world(理想世界)だと考えられている。それも人類に限らず、ありとあらゆるexistence(存在)と言っていい。これは世界にimpact(衝撃)をもたらすmission(任務)だ。我々は常にinitiative(主導権)をとりながらfull commit(全力を投入)してdrive(駆動)させなければならない」*2

 

 主語を補えば、

 

「PIは主体と対象との相互関係*3のうち、主体による知覚作用によって構築されるアイディアルな世界だと考えられている。」

 

「主体の資格は限定されておらず、あらゆるものが主体たり得る*4

 

となるだろう。

f:id:kokeshi_flifla:20180301141244p:plain

「ドライブッ!させなければならない・・・」

こうしてみてみるとヒダカさんもなかなかイケメンであることが分かる。

 

ネタ本での言及

 押山監督は、本作を作るにあたってベースとしたネタ本を、日高敏隆による『動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない―』であると公言している。*5

 

 ——余談ながら、この本は某大学医学部の2014年度入試問題として出題されていたりする。押山監督は医学生であった可能性が微粒子レベルで存在している・・・?

動物と人間の世界認識

動物と人間の世界認識

 

 

 PIというのはアニメでの造語だろうし、当然のことながら本書にPIに関する記述はない。

 

 しかしながら、タイトルにもなっている『イリュージョン』に関する記述なら見つけることができる。

 

 氏は本の中で生物学者ユクスキュルによる「環世界論」という考えを紹介している。

 われわれが環境というとき、昔は環境というのは、あるもの、とくに生物学でいうときには、ある生き物(もちろん人間を含めて)の身の回りにあるものを環境ということになっていた。

 

 英語のエンヴァイロンメントというのは、エンヴァイロン、すなわち周りをとりかこむものということである。他の言語でも同じことだ。つまり、周りをとりかこむもの、それをわれわれは環境といっている。そして、かつての「自然科学的」な認識では、環境は客観的に存在するもので、温度は何度、湿度はどれくらいであって、空気の濃度はどれくらい、酸素の濃度、二酸化炭素の濃度はどうだなど、すべて数字で記述できるもの、それが環境であるという風に思われていた。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180303035639p:plain

ユクスキュルの肖像。かわいい。

 

 しかし、ユクスキュルはそうではないというのである。

 

 それぞれの動物、それぞれ主体となる動物は、周りの環境の中から、自分にとって意味のあるものを認識し、その意味のあるもので、自分たちの世界を構築しているのだ。

 たとえば、イモムシであれば、今、自分が乗っている葉は、自分が食べるべき葉である。したがって、その存在は重要な意味を持つものと認識されている。しかし、そのほかの植物はこのイモムシにとって意味がない。食べられるものではないからである。そしてそれ以外に空気とかいうものは何ら認識する意味はない。結局、その葉っぱというものにだけ意味があるのであって、他のものは存在していないに等しい。

 そしてこの「意味のあるもの」だけ*6をうまく拾えるように、生き物の体はデザインされていて、しかもそれは生物の生活環にきわめて合致する、と有名な「ユクスキュルのダニ」の話を例に述べている。いまだに創造論者が存在するのも無理からぬと思えるくらいにはあまりに都合よくできた話だ。

 

 そういう意味のある存在を、彼らは認識できるようになっている。

 彼らの世界はほとんどこれらのものから成り立っている。(中略)彼らにとって大切なのは、客観的な環境といわれるものではなくて、彼らという主体、この場合にはイモムシが、意味を与え、構築している世界なのである。

 それが大事なのだと、ユクスキュルは言う。ユクスキュルはこの世界のことを「環世界」、ウムヴェルト(Umwelt)と呼んだ。ウムは周りの、ヴェルトは世界である。つまり、彼らの周りの世界、ただ取り囲んでいるというのではなくて、彼ら主体が意味を与える世界なのであるということを、ユクスキュルは主張した。

 当時ユクスキュルのこの学説は、学者間では一笑に付されたそうである。科学というのは唯物的でなければならないが、環世界論はあまりに唯心的である。唯心論では科学はできない、というのだ。

 考えてみればこれは当然の話で、例えば実験プロトコルというものは(オペレーターの技量を抜いて考えれば)誰がやっても同じ結果が出せるように書かなければならない。観測者が違ったから実験結果も違います、では話にならない。それなんてシュタゲ

 メートル法などの単位系にしてもそうである。おのおのの”主観的感覚”では科学はできない。

 

 しかしやがて「環世界論」が注目される分野が出現する。行動生物学だ。ある種の事件において、犯罪者の立場に立って考えてみなければ動機の解明や事件の解決が難しいように、動物の行動もまた、当事者の立場に立ってみなければ理解できないようなものが存在するようなのである。

 すなわち、「彼らにはこれこれこういうものが重要な意味を持っている。そして彼らには

 

 世界はこう見えている。

 

 「だから彼らはこのように行動する

 

 という風に、環世界の考え方を導入すると生き物の行動が分かることがある、というのだ。望んだように動物を動かすことができるのかもしれないわけだから、害虫や害獣であれば効果的な防除に、あるいは希少生物の保護にもつながるかもしれない。本書では「主体である動物」、「主体が意味を与えるもの」、「最終的な行動」を、次々と例示していく。

 

 

 さて、動物当事者にとっての環境は、実のところ環世界であることが分かった。

 

 ところで、では人間が見ている世界は「客観的な環境」なのだろうか?

 

 では、われわれ人間は本当に客観的な世界を見、客観的な世界を構築しているのだろうか。

 それも違う。後に述べるとおり、人間にも、知覚の枠というものがある。誰でも知っているとおり、われわれには紫外線や赤外線は見えない。そのようなものは現実に存在しているのであるが、われわれにはそれを見ることも感じることもできない。ただ、その作用を受けているだけである。われわれはそれを研究することによって、そのような紫外線なり赤外線なりというものの存在を知る。

 知ったうえで、それを含めた世界を頭で考えている。

 

 動物たちにも それぞれの知覚の枠があって、アゲハチョウの場合にはその枠が非常に広い。彼らは紫外線を本当に感じることができる。それに従って彼らは世界を構築している。それは人間が見ている世界を超えたものである。そして人間には彼らの世界を実感することができない。

 そうなると、ユクスキュルが言っている環世界というものは何を言っているのか。それ*7が現実であって、人間はその一部しか見ていないのか。人間は科学、技術によって紫外線、赤外線、さらには電磁波など、さまざまな存在を知っているから、客観的にものを知っていると思っている。それが本当の客観的世界であって、動物たちに見えている世界はいずれもそのごく一部に過ぎないという言い方もできるし、実際にそのような言い方もされている。

 けれどたとえば、モンシロチョウにとって、彼らが構築している世界というものは彼らにとっては現実であるはずである。それ以外に世界はないのである。するとこの現実は一つの虚構として成り立っているといえるかもしれない。しかしそれは虚構ではない。それはモンシロチョウにとってみれば実際の現実なのである。

 

 では、この虚構であって、同時に現実でもある世界は何なのだろう。

 

 それはある種の錯覚であるとも言える。けれどそれは必ずしもつねに「思い違い」であるわけではないし、客観的事実と一致しない、誤った知覚であるとは限らない。

 きわめて俗っぽくいえば、それはある意味での色眼鏡かもしれない。しかし、たとえば動物と人間における色眼鏡と呼んだとすると、かなり限定された印象を与えることになろう。

 そのようなことをいろいろと考えた末、僕はそれをイリュージョン(illusion)と呼ぶことにした。

 

 ここで「イリュージョン」という言葉が初めて出てくる。

 ここまでの内容をまとめると、

  1. 動物には、知覚の枠が存在する。そしてこれは動物の生活環に最適なものである。
  2. そのため、「客観的な環境」は誰にも見ることができない。いわばすべての動物が「色眼鏡」をかけて世の中を見ているようなものだ。
  3. ただし日本語の「色眼鏡」という語は今回意図する意味以上のニュアンスを孕んでいる。このため「色眼鏡」に該当する語を新しく作る。すなわちこれが「イリュージョン」である。

 つまり、イリュージョン≒色眼鏡、イリュージョン≠色眼鏡、ということになる。だから、この本のタイトルは、大まかな意味でいえば「色眼鏡なしに世界は見えない」となる。

(※2018/4/11追記 本書の終章に、「色眼鏡なしにものを見ることはできない」という小章がありました。)

 

f:id:kokeshi_flifla:20180303040728p:plain

 一般的な「イリュージョン」のイメージ

 

 人間もまた知覚の枠を持っている以上、この地球上の世界というものを完全に認識し、それに基づいた世界を構築することはできないはずである。しかし理論的にはそれはできる。科学的な理論ができあがってくれば、それに従ってこれこれしかじかの世界があるはずだということは認識できる。

 

 けれどそれは現実にはわれわれには感じることができないものを含んでいる。たとえば紫外線についていえば、紫外線というものがあるということは知ってはいるが、感じることはできない。紫外線というものがどんな色のものか、まったくわからない。いかに機械でそれを証明しようとしても、その色は実感できない。するとこれはなんだろうか。理論的に存在し、頭ではわかっているが、現実に見たり触れたりして実感することはできないもの。それはある種のイリュージョンではないか。

 

 さて、ここで注意しなくてはいけないのは、この本の中で「イリュージョン」と呼ばれているものが実は、2パターン存在する、ということである。お分かりいただけるだろうか。

 

 すなわち、

  1. 直接知覚できるイリュージョン
  2. 概念装置を介して知覚できるイリュージョン

の二つである。これらは全く次元の違う話である。したがって、ここから言えるのは、イリュージョンにはいくつかの異なるフェーズが存在する、ということだ。

 

 筆者はこれらにさらに一つ付け加えて、

  1. 直接知覚できるイリュージョン
  2. 「その種特有の知覚の枠」範囲内だが、自分の経験ではなく伝聞としてのイリュージョン
  3. 「知覚の枠」からは外れるが、概念装置の助けを借りて知覚するイリュージョン

 

 という姿をモデルにしたい。全部イリュージョンでは都合が悪いので、フェーズごとにそれぞれ名前を付けるとすると、

  1. 純粋経験=ピュアイリュージョン
  2. 伝聞経験・間接経験=第一メタイリュージョン
  3. 概念経験=第二メタイリュージョン

 

 

 ・・・おやぁ?

 

 確かにオーディオ関連のネタが多いのは知っているが、しかしそれはPIのネーミングが先で、他が後付けであるという風には考えられないだろうか。すみません思いっきり誘導しました

 ・・・ここに関しては、完全に妄想の域を出るものではない。

 

 また、ここでは関係ないが、メタイリュージョンに関する認識の違い、これがディスコミュニケーションの根本的原因であるというのが個人的な詩論だ。これに関しては、いつか独立した記事を書きたい。

 

 

ピュアイリュージョンも全て世界はなめらかに存在している

 さて、話は7話、「ドライブッ!させなければならない・・・」の直後に戻る。「ピュアイリュージョンって、異世界だと思ってた・・・」というココナの声にかぶさるように、若干食い気味にソルトさんが次のように語る(だから7話)。

ソルト「ピュアイリュージョンも全て世界はなめらかに存在している」
パ・コ「あっ」
ソルト「しかし、実際にはそうではない。摩擦のないユートピアなど存在しない」
ソルト「摩擦は世界の真理だ」

 

 もののサイト*8によれば、これはヴィトゲンシュタインのオマージュらしいが、今まで見てきた環世界をめぐる話からも、ある程度はアプローチできるはずだ。

 

 「ピュアイリュージョンも全て世界はなめらかに存在している」。それはきっとそうだろう。客観的世界(構造上誰にも観測はできないわけだが)とPIは、なにも違う世界ではない。日高先生の言葉を借りるなら、客観世界をさまざまな色眼鏡越しに覗いているだけなのだ。あるいは、客観世界は現に存在するが、動物にはそのごく一部しか見ることができない、という部分を引用してもいい。いずれにしても意味は同じだ。

 

 ココナは「異世界だと思ってた・・・」というが、実は彼女は1話でも同様の発言をしている。

ココナ「さっきのあれ、何なの!」
パピカ「ピュアイリュージョン?」
ココナ「夢なの?異世界とか、並行世界なの?!」

 

 ここに関する解釈であるが、個人的にはここは反語であろうと思う。また、視聴者の感想を代弁してくれているという見方もできる。

 

 「しかし、実際にはそうではない。摩擦のないユートピアなど存在しない」、「摩擦は世界の真理だ」。

 先に述べたように、客観世界は誰にも観測できない。さらに言えば、他人のPIを覗くこともできない。いや、本来はできないというのが正しい。さまざまなPIをまたにかけて冒険する話なので、これを言ってしまうと作品そのものを否定しかねない。危ない危ない。

 

 自分が知覚している世界、というのは厳密な意味でいえばたとえ同種であったとしても、別の個体と完全に共有することはできない*9。とても孤独だ。大きなバルーンの内側にいるようなものだ。自分の知覚できる範囲というのはおのずから決まっている。その終端がバルーンの膜である。そしてこれこそが「摩擦」である。

 

 主体が存在する限り摩擦は存在する。だから摩擦のないユートピアなど存在しないし、摩擦は世界の真理なのだ。少なくとも世界が誰かによって観測されている限り。

 

f:id:kokeshi_flifla:20180303061032p:plain

 PIの概念モデル。というかマップ。7話より。

 

 

終わりに

 私たちはともすれば自分が見ている世界が絶対である、と思いがちである。しかし現実にはそんなことはなく、自己もまた無限に続く相対の一つの端である。そして構造的に、ピュアイリュージョンのレベルでは他の人間が、生き物が、どのような世界を見ているかは分かりようがない。

 だが幸いなことに、私たちには高度に発達したメタイリュージョンが存在する。決して手が届かず、本当の意味で理解することはかなわない存在、それを認めたとき、他の生き物に対する尊敬の念が抱けるような気がする。生きしと生けるものが愛おしくなる。

 

 理解できなければこそ、われわれは自問し、そしてまた誰かに問いかけるのだろう。

 

「世界はどんな風に見えてる?」と。

 

 

 

 

*1:謎のホール内でココナとパピカが体験したのは、二人の先輩にあたる女子生徒の記憶と思われる世界だった。

*2:『フリップフラッパーズ』の学術的な元ネタまとめ!だまし絵、ユクスキュルの環世界説など -page6 | まとめまとめ

*3:主体は認識し、対象は認識される。

ノエシスノエマ関係にも似るが、この場合ノエマに当たる客体はアイディアルなものというよりはむしろ物理的なものに近いであろう

*4:”生物”と限定していないあたりが面白い。アミニズムである。

*5:フリップフラッパーズ ピュアイマジネーション 監督:押山清高インタビュー」:フリップフラッパーズ1巻初回特典小冊子 オープニング・エンディング偏,45-46

*6:不要な情報は余計なマネジメントコストを発生させ、混乱を生じさせ、生存には不利に働く。確実な生存行動のためには、必要最低限の情報をコントロールできればいい。これを本書の中では、理想的な「みすぼらしい世界」と言っている。

*7:※筆者注 文脈から考えて、それ=客観的世界、だろう

*8:『フリップフラッパーズ』の学術的な元ネタまとめ!だまし絵、ユクスキュルの環世界説など -page6 | まとめまとめ

*9:何事にも例外は存在する。ある種のホヤは、(特定の条件下ではあるものの)自己と非自己を区別せず、複数個体が癒合する。

「ホヤにおける自己・非自己の認識機構」渡邊浩:動物学雑誌 84(4),275(1975)

「Isolation and characterization of a protochordate histocompatibility locus.」De Tomaso AW et al.:nature 438(7067),437(2005)

フリップフラッパーズ考察 ~はじめに~

初めに

 本ブログはテレビアニメ『フリップフラッパーズ』に関する考察を取り扱っており、ネタバレや私見にまみれています。また、体裁状あらすじなども記載してはいますが、基本は既視聴者を対象としています。ご了承くださいませ。

 

 

執筆の経緯

 僕がフリップフラッパーズに出会ったのは、実は放送開始からしばらく経過した、シリーズも中盤に差し掛かった時期であった。ツイッターなどに流れてくるスクショなどでタイトルと絵はなんとなく知っていたが、内容についてはさっぱりだった。

 それもそのはず、この作品は一口に言い表すにはあまりに複雑で、かつ舞台がコロコロ変わるため一場面の切り抜きだけではわけが分からないのである。おまけに、辛うじて僕が知っていた情報としては『プリキュアみたいな変身もの』というのだけで、ジャンルとして視聴対象ではないと決め込んでしまっていた。

 確かに、『変身もの』というのは間違いではなかったが、しかしそれは作品のほんの一断面に過ぎなかった。

 友人に勧められるがまま、一話を視聴したが、一話の土管に吸い込まれる際のワクワク感、トンネルを突き抜けた先にあるピュアイリュージョンの爽快感、今にも肌に届くような気温、色、音の臨場感、そのすべてにすぐに引き込まれた。

 

 このアニメは、ストーリーの構成上、前半と後半に分けることができ、一部のファンの間ではそれぞれについての評価が分かれている。これについてはある持論を持っていた(個人的には前半派だった)。しかし、先日2/6、久しぶりにマラソンをした結果、全く違う意識を持つようになった。すなわち、シリーズ全体としてよくできていることに気づいたのである。

 

 今月2/24には埼玉での非公式上映会が予定されているらしく(

http://twipla.jp/events/282082)、筆者も(今のところ)行く予定である。それまでに、今までこの作品に対して考えたこと、また先日のマラソンによって得た見解を一度まとめてみようと思い立ち、本ブログを執筆した次第である。

 

 ↑諸般の事情により参加はできなかった。無念の限りである。

 

フリップフラッパーズとは

 『フリップフラッパーズ』とは、2016年秋枠に放送されていた、日本のアニメ作品である(公式サイトhttp://flipflappers.com/)。

 

あらすじ

ある日、志望校を決めかねていた中学2年生のココナの前に突如現れた謎の少女パピカ。謎の組織「フリップフラップ」に所属しているパピカは、どんな願いも叶えてくれるという「ミミの欠片」を集めているらしい。ミミの欠片が存在する不思議な世界「ピュアイリュージョン」に行くには、一人では力が足りないというパピカ。そんなパピカに引きずられるように、ココナは「ピュアイリュージョン」へと旅立つ。ミミの欠片を求め、パピカとココナの不思議な冒険が始まる。

フリップフラッパーズ - Wikipedia

 

 この作品は、ガール・ミーツ・ガールのいわゆる“百合もの”要素、魔法少女や戦隊もののような変身要素、さまざまなピュアイリュージョン(以下PI)を旅するという冒険活劇要素、内気で依存性のある主人公(?)*1

が独り立ちするという成長もの要素、また随所にちりばめられた哲学的考察要素など、実に様々な要素から成り立っており、一部の熱狂的ファンを獲得した。

 一方で、その難解なストーリー性とシリーズ全体にわたる内向性(ただしこれでも監督本人曰く“没個性、没作家性”に徹しているらしい)*2から、一部からは“意識高い系アニメ”と揶揄されたりもした。有体に言ってしまえば独りよがりということである。これには様々な分野からの引用(ストーリーの進行上意味のあるものも多い)に対していちいち解説がなされなかったことも要因の一つかと思われる。

 

作品の魅力

 個人的には、これらの指摘はあながち間違いではないと思うが、しかしそもそも作品のテーマからして内向的になってしまうのは致し方ないことであるともいえる。これには用語解説の項で触れる。

 また、内向に振れすぎないように軌道修正していると思われる部分も存在する。各話ごとに全く違う世界に冒険するのは、作品のカテゴリーを限定せず、クリエイターの自我を希薄にすることによって作品の健全化を図ろうとしている面もあるのではないか。

 元ネタやストーリーに関して必要以上の言及を避けるのも、個人的な心象としては悪くない。いちいち解説してしまうのは野暮であるし、『この作品はこうですよ!』と制作側が提示してしまうのはテーマ性に沿わない。

 演出や作画、音楽など細かいところにこだわっているのも好印象である。アニメーターが作ったアニメ、と言われれば非常に納得のいく内容である。動画としてどのように作れば面白いのかとてもよく計算されていて、見ていて飽きない。手書きのアニメで、あえてアナログ手法を用いているのも好感度が高い(CGアニメはあまり好きじゃない)。

 さらに、このテーマは見える形に落とし込むのは非常に難しいものだったと考える。一種の精神的世界だからである。『今あなたが感じていることを、他人に分かるように絵として図示しろ』と言われて形にできる人が一体どれだけいるだろう?

 この内容を、アニメとして享受できるのはこの上ない贅沢だろう。

 

 難解なストーリー性、アナログな制作手法というのは時代の流れから逆行しているようにも見える。第一話を見終わった後最初の感想が、「いまだにこんなアニメ作る、作れる人がいたとは」であったのは感慨深い。また、一口に言い表しづらい作品性というのもキャッチーからは程遠い。しかし、あえてそれらを捨てることによって、フリフラはモンスター級の完成度を誇るアニメとなっている。こういう“ちゃんとしたもの”をつくるクリエイターをつぶしてはいけない。円盤を買おう。

 

 

 

登場人物

フリップフラップ

パピカ

 本作一人目の主人公。PI研究組織『フリップフラップ』に所属しており、組織内では複数PI間にまたがって無数に散らばる“ミミの欠片”を、PIにダイブすることによって集める実働隊。

 序盤では中学生の姿(14歳?)で現れるが、実はソルトとは幼馴染である。本名はパピカナ。

 アスクレイピオスの前身であるPI研究所(以下PIIとする、筆者による造語)に収容されていた被検体の一人で、ダイレクトドライブ(DD)であるミミのパートナー候補だった。実験は成功し、その後しばらくミミのパートナーとしてPIを冒険することになる。

 “事故”をきっかけにPI内最果ての生命の樹にとらわれてしまうが、その後何らかの形でソルトに回収されている模様。パピカナ時代の記憶はない。

 

ココナ

 本作二人目の主人公。自力ではPIにダイブできないパピカからパートナー候補として白羽の矢を立てられる。以降はパピカと共に様々なPIを冒険しながら“ミミの欠片”を集めることになる。ミミとソルトの娘。

 『両親は事故で死んだ』ということになっており(4話)、おばあちゃんとの二人暮らしだが、実際にはアスクレイピオスの監視下にある。

 

 左太ももに欠片を持っている。

 

ユクスキュル

 ココナが飼っているウサギのような生き物。PI内では“緑の紳士”といういかついオッサンのような第二形態をとり、たびたびメンバーの危機を救う。

 

ソルト

 フリップフラップ所長のおじさんでココナの父親。だいたいこいつのせい。フリップフラップの運営方針を決定しているようで偉そうに命令を下すが、普段何を職務にしているのかは不明。

 PII研究員(所長?)の息子であり、一時はPII所属の研究者でもあった。幼少時、まだ見習い研究員であった時代にミミやパピカと出会う。やがてミミと恋人の仲となる。ミミの欠片を所持しており、そのうちの一つをペンダントにしてお守りのように常に下げている。

 ミミが自分との子供を孕んでいたことを、欠片に散る直前まで知らなかった。

 

 監督によれば(内面、外見の)キャラクターデザインに関しては太宰治がモチーフらしい。*3

 

ヒダカ

 フリップフラップ所属のPI研究者。おもにコンピュータやメカニック担当のような描かれ方をしているが、フリップフラップ内でソルトさんが働いている描写はほとんどないので技術面はジェネラルに受け持っているものと考えられる。

 どのような経緯でフリップフラップに所属したのかは不明。

 

サユリさん

 オペ子。作品内で唯一の常識人といっても過言ではない。

 ヒダカ同様所属の経緯については不明。

 

ブーちゃん

 パピカやココナと一緒に冒険をするロボットで、正式名称TT-392。脳味噌を搭載した奇妙なマシンだが、生き物のように自立して行動でき、また表情豊かなキャラクターである。性別(?)はオスのようであり、作中に登場する女の子に節操なくスケベな視線を向ける。

 

 元ネタはSF小説『ジェイムスン教授』シリーズに出てくるロボット21MM-392と、火星探査機キュリオシティ*4

 

アスクレイピオス

大神官

 ソルトの父で元PII研究員。10話で描かれるように所内研究方針に対しては一定以上の発言力を持っており、またソルトのお願いによりミミの外出(一時的かつ監視下ではあるが)を許可できるなど、明言はされていないが所長であった可能性が高い。

 自らが搭乗してELPISを使った実験を行うが、ミミとパピカが“PIの深部”に触れたことがきっかけとなり、PIに魅せられ発狂。以降『ピュアイリュージョンを現世(うつしお)に』とひたすら口走るようになりPII内で収監される。

 

 が、1年後には何故か所長の座に返り咲いている模様。なんでだ。

 

 “事故”後は宗教組織と化したアスクレイピオスの首領である『大神官』として君臨する。

 

ヤヤカ

 ココナの幼馴染で親友。実はアスクレイピオスの差し金でココナの監視をしている。

 もともとアスクレイピオスの被検体で、ミミの欠片を後天的に埋め込まれている。

 

 トト、ユユと共にPIにダイブし、アモルファスを集めている。

 

トト

 発生初期の段階(胚?)でミミの欠片を埋め込まれた『アモルファスの子供』。ユユの双子の兄。

 

 ヤヤカ、ユユと共にPIにダイブし、アモルファスを集めている。

 

ユユ

 発生初期の段階(胚?)でミミの欠片を埋め込まれた『アモルファスの子供』。トトの双子の妹。

 

トト、ヤヤカと共にPIにダイブし、アモルファスを集めている。

 

ニュニュ

 第三のアモルファスの子供。

 

ココナのおばあちゃん

 両親の死んだココナを優しく見守るおばあちゃん

 

 ・・・と見せかけて実はアスクレイピオスのアンドロイドで、ココナを監視している。

 

その他

彩いろは先輩

 ココナたちの学校の先輩で、おそらく三年生。美術部員。

ココナたちはPIの深部である先輩の記憶を旅した。

 

ミミ

 ココナの母親。夢を介してココナの前にたびたび現れる。

 

 唯一PIに自力で至れる存在(DD)で、PIIにより拘束され、実験を受けていた。外の世界を知らされないまま、幽閉状態で育てられた。

 数少ない外部との接触であるソルト、パピカナと友人になり、特にソルトとは後に恋人関係になる。“事故”により複数PI間に無数に散らばる欠片になってしまう。

 

用語解説

ピュアイリュージョン(PI)

 それぞれのPI、及び客観としての現実世界と相互作用する主観世界。本作品の大きなテーマの一つでもある。「万物の主観を旅する」というテーマである以上、内容が内向的になってしまうのは致し方ないといえる。

 

アスクレイピオス

 かつてのPIIが宗教組織化したもの。被検体の子供を集めてのPI実験は現在も継続中。PI研究の目的は『ピュアイリュージョンを現世(うつしお)に』展開すること。

 

フリップフラップ

 事故後ソルトが仲間を集めて立ち上げたPI研究所。PIIが公営組織然としているのに対し、野戦指揮所のような雰囲気。

 

ダイレクトドライブ

 機械やアモルファスに頼ることなく自分の力だけでPIに至れる存在。ミミとパピカナのこと。

 

ミミの欠片(=アモルファス

 “事故”によって散ってしまったミミの残骸。宝石のような外見をしており、フリップフラップでは『集めると願い事が叶うタカラモノ』、アスクレイピオスでは『集めると世界征服ができる』と教えられている。

 

 

うーーん・・・

 

とりあえず本編見て下さい!

 

なんでもしますから!(なんでもするとは言っていない)

*1:フリップフラッパーズ ピュアイマジネーション 監督:押山清高インタビュー」:フリップフラッパーズ1巻初回特典小冊子 オープニング・エンディング偏,45-46

フリップフラッパーズ キャラクターデザインズ 監督:押山清高×キャラクターデザイン:小島崇史」フリップフラッパーズ2巻初回特典小冊子 キャラクター・アイテム偏[上],45-46 

「パピカ自立変身~ミミ変身 COMMENT」:フリップフラッパーズ5巻初回特典小冊子 キャラクター・アイテム偏[下],41-44

監督は、一巻では

「僕は本作においてあまり明確に”成長”というところに重点を置いていません。結果的に成長するかもしれませんが」

「前半はココナがメインのストーリー展開ですし、彼女が主人公でいいんじゃないかという声もありましたが、主人公はパピカに拘りました。

と述べているが、二巻では

作品の核の部分に触れることでもあるんですが、幼虫がさなぎになって蝶々になる、生き物が変態して成長していくのをパピカとココナの成長に絡めているところもあります。」

、五巻では

「最後に登場する変身は通常の変身とは仕組みが違うため、さらなる変身ではなく、全く別なアプローチからの全く新しい変身として、ゼロからデザインする必要がありました。(中略)花嫁衣裳の様な純白で清潔なスカートに(中略)。以前にもあった羽の様なものは、大きく完全なものにして、成虫への変態を遂げたという事にしました。また、髪の毛や目の色など、以前はミミの色に影響されて変化していた部分がなくなり、変身後も通常と変えない事にしました。絵コンテや設定では自立変身と位置付けています。」(※筆者注:要約すると、「『自立変身』のデザインは、『親離れ、親(巣)立ち』である」ということかと思われる)

「ミミを打ち負かすことは、ココナの成長を描くうえで大事なテーマの一つだったので、ミミの設定には対決するべき存在であることの意味付けを多く取り入れました。」

「ミミは(中略)グレートマザーへと自我が支配されてしまいます。」

とも述べている(引用文中太字はいずれも筆者による強調)。二巻以降についての記述は、これを素直に読み取るのであれば「自分で決めることのできないココナが、無意識のうちに自分を束縛していた存在である母親と対決し、これに勝利することによって、まるでイモムシがさなぎを経てチョウへと変わるように、(今までの自分と決別して)大人になる」というストーリーラインが存在し、なおかつこれは「作品テーマの核に触れる」ということになる。事実一話で登場する樹氷スラッグのイモムシは終盤のPI氾濫の際には蛹になっており、最終話ではチョウとなって羽ばたいていた。これは数ある作品全体のストーリーラインのひとつである「羽化」のメタファーといえる。

すなわち監督は、「主人公はパピカに拘り」つつも、最終的にはココナの成長を作品の核と絡めて表現したことになる。

このことに関する説明は何通りか考えられるが、例えば制作には時間がかかり、またこの作品がオリジナルアニメであること(原作がないので展開が決定していない、制作中に色々と事情、考え方は変わるはず)、あるいは「結果的な成長」をストーリーベースとしつつも「魅せるべきはモラトリアムな思春期の心象」という裏設定的な作り方をしたか、などといったことが挙げられる。

いずれにしても二人のどちらもが主人公格であることは疑いようのないことであり、「いずれが主人公であるか」という「うっかりした思い付き」はともすれば宗教戦争勃発待ったなしである。というか二人で一つみたいなところあるし、まぁ、多少はね?

*2:フリップフラッパーズ インタビュー 監督:押山清高」:フリップフラッパーズ6巻初回特典小冊子 作品資料集:世界観偏[下],46

*3:「ソルト」:フリップフラッパーズ2巻初回特典小冊子 キャラクター・アイテム偏[上],24

*4:「TT-392」:フリップフラッパーズ2巻初回特典小冊子 キャラクター・アイテム偏[上],19-20