フリフラ雑記帳

フリップフラッパーズの考察、その他をダラダラかくブログです。不定期更新。

フリップフラッパーズ考察① ~そもそもピュアイリュージョンとは何か~

 イントロダクションを書くのに思いのほか時間がかかってしまいましたが、この記事からようやっと考察らしい考察となります。

 やっと本題に入れる・・・

 

初めに

 本ブログはテレビアニメ『フリップフラッパーズ』に関する考察を取り扱っており、記事内容にはネタバレを含みます。ここで述べられている考察はすべて個人の見解であり、公式による情報では一切ないことをここに明記します。

 

 

ピュアイリュージョンとは何か

 フリップフラッパーズというアニメは、パピカとココナという二人の主人公が「ピュアイリュージョン」なる世界を旅する物語である。ではこのピュアイリュージョン(以下PI)とはいったい何なのだろうか。

 作品の根底に横たわっているものということもあり、特に何度も視聴している人からすれば「いまさら」「ある種あって当たり前」であるのは百も承知であるが、しかし同時にだからこそこの作品を語るにあたっては避けて通れないものだとも考える。

 愚昧ながら、考えを述べさせていただきたい。

 

 本編中での言及

 冒険中、正体不明のホールに吸い込まれてしまったパピカとココナ。帰還後にその正体をヒダカに問い詰める(7話)。

ココナ「ヒダカさん教えてください!」
パピカ「先輩が変!」*1
ココナ「ピュアイリュージョンってなんですか?!」
ココナ「私たちが入った穴って、」
コ・パ「何なんですか?!!」

 

 これに対しヒダカは以下のように答えている。

ヒダカ「つまり!」

ヒダカ「ピュアイリュージョンはサブジェクトとのインタレレーションシップによる、一種のパーセプション、イデアワールドだと考えられている」

ヒダカ「それも人類に限らず、ありとあらゆるエグジスタンスと言っていい」

ヒダカ「これは世界にインパクトをもたらすミッションだ」

ヒダカ「我々は常にイニシアチブをとりながらフルコミットしてドライブ!させなければならない」

 

 ココナ「まだ難しいんですけど・・・」

 

 まだ難しいので平文に直す。

 

「つまりピュアイリュージョンはsubject(対象)とのinterrelationship(相互関係)による一種のperception(知覚)、idea world(理想世界)だと考えられている。それも人類に限らず、ありとあらゆるexistence(存在)と言っていい。これは世界にimpact(衝撃)をもたらすmission(任務)だ。我々は常にinitiative(主導権)をとりながらfull commit(全力を投入)してdrive(駆動)させなければならない」*2

 

 主語を補えば、

 

「PIは主体と対象との相互関係*3のうち、主体による知覚作用によって構築されるアイディアルな世界だと考えられている。」

 

「主体の資格は限定されておらず、あらゆるものが主体たり得る*4

 

となるだろう。

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「ドライブッ!させなければならない・・・」

こうしてみてみるとヒダカさんもなかなかイケメンであることが分かる。

 

ネタ本での言及

 押山監督は、本作を作るにあたってベースとしたネタ本を、日高敏隆による『動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない―』であると公言している。*5

 

 ——余談ながら、この本は某大学医学部の2014年度入試問題として出題されていたりする。押山監督は医学生であった可能性が微粒子レベルで存在している・・・?

動物と人間の世界認識

動物と人間の世界認識

 

 

 PIというのはアニメでの造語だろうし、当然のことながら本書にPIに関する記述はない。

 

 しかしながら、タイトルにもなっている『イリュージョン』に関する記述なら見つけることができる。

 

 氏は本の中で生物学者ユクスキュルによる「環世界論」という考えを紹介している。

 われわれが環境というとき、昔は環境というのは、あるもの、とくに生物学でいうときには、ある生き物(もちろん人間を含めて)の身の回りにあるものを環境ということになっていた。

 

 英語のエンヴァイロンメントというのは、エンヴァイロン、すなわち周りをとりかこむものということである。他の言語でも同じことだ。つまり、周りをとりかこむもの、それをわれわれは環境といっている。そして、かつての「自然科学的」な認識では、環境は客観的に存在するもので、温度は何度、湿度はどれくらいであって、空気の濃度はどれくらい、酸素の濃度、二酸化炭素の濃度はどうだなど、すべて数字で記述できるもの、それが環境であるという風に思われていた。

 

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ユクスキュルの肖像。かわいい。

 

 しかし、ユクスキュルはそうではないというのである。

 

 それぞれの動物、それぞれ主体となる動物は、周りの環境の中から、自分にとって意味のあるものを認識し、その意味のあるもので、自分たちの世界を構築しているのだ。

 たとえば、イモムシであれば、今、自分が乗っている葉は、自分が食べるべき葉である。したがって、その存在は重要な意味を持つものと認識されている。しかし、そのほかの植物はこのイモムシにとって意味がない。食べられるものではないからである。そしてそれ以外に空気とかいうものは何ら認識する意味はない。結局、その葉っぱというものにだけ意味があるのであって、他のものは存在していないに等しい。

 そしてこの「意味のあるもの」だけ*6をうまく拾えるように、生き物の体はデザインされていて、しかもそれは生物の生活環にきわめて合致する、と有名な「ユクスキュルのダニ」の話を例に述べている。いまだに創造論者が存在するのも無理からぬと思えるくらいにはあまりに都合よくできた話だ。

 

 そういう意味のある存在を、彼らは認識できるようになっている。

 彼らの世界はほとんどこれらのものから成り立っている。(中略)彼らにとって大切なのは、客観的な環境といわれるものではなくて、彼らという主体、この場合にはイモムシが、意味を与え、構築している世界なのである。

 それが大事なのだと、ユクスキュルは言う。ユクスキュルはこの世界のことを「環世界」、ウムヴェルト(Umwelt)と呼んだ。ウムは周りの、ヴェルトは世界である。つまり、彼らの周りの世界、ただ取り囲んでいるというのではなくて、彼ら主体が意味を与える世界なのであるということを、ユクスキュルは主張した。

 当時ユクスキュルのこの学説は、学者間では一笑に付されたそうである。科学というのは唯物的でなければならないが、環世界論はあまりに唯心的である。唯心論では科学はできない、というのだ。

 考えてみればこれは当然の話で、例えば実験プロトコルというものは(オペレーターの技量を抜いて考えれば)誰がやっても同じ結果が出せるように書かなければならない。観測者が違ったから実験結果も違います、では話にならない。それなんてシュタゲ

 メートル法などの単位系にしてもそうである。おのおのの”主観的感覚”では科学はできない。

 

 しかしやがて「環世界論」が注目される分野が出現する。行動生物学だ。ある種の事件において、犯罪者の立場に立って考えてみなければ動機の解明や事件の解決が難しいように、動物の行動もまた、当事者の立場に立ってみなければ理解できないようなものが存在するようなのである。

 すなわち、「彼らにはこれこれこういうものが重要な意味を持っている。そして彼らには

 

 世界はこう見えている。

 

 「だから彼らはこのように行動する

 

 という風に、環世界の考え方を導入すると生き物の行動が分かることがある、というのだ。望んだように動物を動かすことができるのかもしれないわけだから、害虫や害獣であれば効果的な防除に、あるいは希少生物の保護にもつながるかもしれない。本書では「主体である動物」、「主体が意味を与えるもの」、「最終的な行動」を、次々と例示していく。

 

 

 さて、動物当事者にとっての環境は、実のところ環世界であることが分かった。

 

 ところで、では人間が見ている世界は「客観的な環境」なのだろうか?

 

 では、われわれ人間は本当に客観的な世界を見、客観的な世界を構築しているのだろうか。

 それも違う。後に述べるとおり、人間にも、知覚の枠というものがある。誰でも知っているとおり、われわれには紫外線や赤外線は見えない。そのようなものは現実に存在しているのであるが、われわれにはそれを見ることも感じることもできない。ただ、その作用を受けているだけである。われわれはそれを研究することによって、そのような紫外線なり赤外線なりというものの存在を知る。

 知ったうえで、それを含めた世界を頭で考えている。

 

 動物たちにも それぞれの知覚の枠があって、アゲハチョウの場合にはその枠が非常に広い。彼らは紫外線を本当に感じることができる。それに従って彼らは世界を構築している。それは人間が見ている世界を超えたものである。そして人間には彼らの世界を実感することができない。

 そうなると、ユクスキュルが言っている環世界というものは何を言っているのか。それ*7が現実であって、人間はその一部しか見ていないのか。人間は科学、技術によって紫外線、赤外線、さらには電磁波など、さまざまな存在を知っているから、客観的にものを知っていると思っている。それが本当の客観的世界であって、動物たちに見えている世界はいずれもそのごく一部に過ぎないという言い方もできるし、実際にそのような言い方もされている。

 けれどたとえば、モンシロチョウにとって、彼らが構築している世界というものは彼らにとっては現実であるはずである。それ以外に世界はないのである。するとこの現実は一つの虚構として成り立っているといえるかもしれない。しかしそれは虚構ではない。それはモンシロチョウにとってみれば実際の現実なのである。

 

 では、この虚構であって、同時に現実でもある世界は何なのだろう。

 

 それはある種の錯覚であるとも言える。けれどそれは必ずしもつねに「思い違い」であるわけではないし、客観的事実と一致しない、誤った知覚であるとは限らない。

 きわめて俗っぽくいえば、それはある意味での色眼鏡かもしれない。しかし、たとえば動物と人間における色眼鏡と呼んだとすると、かなり限定された印象を与えることになろう。

 そのようなことをいろいろと考えた末、僕はそれをイリュージョン(illusion)と呼ぶことにした。

 

 ここで「イリュージョン」という言葉が初めて出てくる。

 ここまでの内容をまとめると、

  1. 動物には、知覚の枠が存在する。そしてこれは動物の生活環に最適なものである。
  2. そのため、「客観的な環境」は誰にも見ることができない。いわばすべての動物が「色眼鏡」をかけて世の中を見ているようなものだ。
  3. ただし日本語の「色眼鏡」という語は今回意図する意味以上のニュアンスを孕んでいる。このため「色眼鏡」に該当する語を新しく作る。すなわちこれが「イリュージョン」である。

 つまり、イリュージョン≒色眼鏡、イリュージョン≠色眼鏡、ということになる。だから、この本のタイトルは、大まかな意味でいえば「色眼鏡なしに世界は見えない」となる。

(※2018/4/11追記 本書の終章に、「色眼鏡なしにものを見ることはできない」という小章がありました。)

 

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 一般的な「イリュージョン」のイメージ

 

 人間もまた知覚の枠を持っている以上、この地球上の世界というものを完全に認識し、それに基づいた世界を構築することはできないはずである。しかし理論的にはそれはできる。科学的な理論ができあがってくれば、それに従ってこれこれしかじかの世界があるはずだということは認識できる。

 

 けれどそれは現実にはわれわれには感じることができないものを含んでいる。たとえば紫外線についていえば、紫外線というものがあるということは知ってはいるが、感じることはできない。紫外線というものがどんな色のものか、まったくわからない。いかに機械でそれを証明しようとしても、その色は実感できない。するとこれはなんだろうか。理論的に存在し、頭ではわかっているが、現実に見たり触れたりして実感することはできないもの。それはある種のイリュージョンではないか。

 

 さて、ここで注意しなくてはいけないのは、この本の中で「イリュージョン」と呼ばれているものが実は、2パターン存在する、ということである。お分かりいただけるだろうか。

 

 すなわち、

  1. 直接知覚できるイリュージョン
  2. 概念装置を介して知覚できるイリュージョン

の二つである。これらは全く次元の違う話である。したがって、ここから言えるのは、イリュージョンにはいくつかの異なるフェーズが存在する、ということだ。

 

 筆者はこれらにさらに一つ付け加えて、

  1. 直接知覚できるイリュージョン
  2. 「その種特有の知覚の枠」範囲内だが、自分の経験ではなく伝聞としてのイリュージョン
  3. 「知覚の枠」からは外れるが、概念装置の助けを借りて知覚するイリュージョン

 

 という姿をモデルにしたい。全部イリュージョンでは都合が悪いので、フェーズごとにそれぞれ名前を付けるとすると、

  1. 純粋経験=ピュアイリュージョン
  2. 伝聞経験・間接経験=第一メタイリュージョン
  3. 概念経験=第二メタイリュージョン

 

 

 ・・・おやぁ?

 

 確かにオーディオ関連のネタが多いのは知っているが、しかしそれはPIのネーミングが先で、他が後付けであるという風には考えられないだろうか。すみません思いっきり誘導しました

 ・・・ここに関しては、完全に妄想の域を出るものではない。

 

 また、ここでは関係ないが、メタイリュージョンに関する認識の違い、これがディスコミュニケーションの根本的原因であるというのが個人的な詩論だ。これに関しては、いつか独立した記事を書きたい。

 

 

ピュアイリュージョンも全て世界はなめらかに存在している

 さて、話は7話、「ドライブッ!させなければならない・・・」の直後に戻る。「ピュアイリュージョンって、異世界だと思ってた・・・」というココナの声にかぶさるように、若干食い気味にソルトさんが次のように語る(だから7話)。

ソルト「ピュアイリュージョンも全て世界はなめらかに存在している」
パ・コ「あっ」
ソルト「しかし、実際にはそうではない。摩擦のないユートピアなど存在しない」
ソルト「摩擦は世界の真理だ」

 

 もののサイト*8によれば、これはヴィトゲンシュタインのオマージュらしいが、今まで見てきた環世界をめぐる話からも、ある程度はアプローチできるはずだ。

 

 「ピュアイリュージョンも全て世界はなめらかに存在している」。それはきっとそうだろう。客観的世界(構造上誰にも観測はできないわけだが)とPIは、なにも違う世界ではない。日高先生の言葉を借りるなら、客観世界をさまざまな色眼鏡越しに覗いているだけなのだ。あるいは、客観世界は現に存在するが、動物にはそのごく一部しか見ることができない、という部分を引用してもいい。いずれにしても意味は同じだ。

 

 ココナは「異世界だと思ってた・・・」というが、実は彼女は1話でも同様の発言をしている。

ココナ「さっきのあれ、何なの!」
パピカ「ピュアイリュージョン?」
ココナ「夢なの?異世界とか、並行世界なの?!」

 

 ここに関する解釈であるが、個人的にはここは反語であろうと思う。また、視聴者の感想を代弁してくれているという見方もできる。

 

 「しかし、実際にはそうではない。摩擦のないユートピアなど存在しない」、「摩擦は世界の真理だ」。

 先に述べたように、客観世界は誰にも観測できない。さらに言えば、他人のPIを覗くこともできない。いや、本来はできないというのが正しい。さまざまなPIをまたにかけて冒険する話なので、これを言ってしまうと作品そのものを否定しかねない。危ない危ない。

 

 自分が知覚している世界、というのは厳密な意味でいえばたとえ同種であったとしても、別の個体と完全に共有することはできない*9。とても孤独だ。大きなバルーンの内側にいるようなものだ。自分の知覚できる範囲というのはおのずから決まっている。その終端がバルーンの膜である。そしてこれこそが「摩擦」である。

 

 主体が存在する限り摩擦は存在する。だから摩擦のないユートピアなど存在しないし、摩擦は世界の真理なのだ。少なくとも世界が誰かによって観測されている限り。

 

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 PIの概念モデル。というかマップ。7話より。

 

 

終わりに

 私たちはともすれば自分が見ている世界が絶対である、と思いがちである。しかし現実にはそんなことはなく、自己もまた無限に続く相対の一つの端である。そして構造的に、ピュアイリュージョンのレベルでは他の人間が、生き物が、どのような世界を見ているかは分かりようがない。

 だが幸いなことに、私たちには高度に発達したメタイリュージョンが存在する。決して手が届かず、本当の意味で理解することはかなわない存在、それを認めたとき、他の生き物に対する尊敬の念が抱けるような気がする。生きしと生けるものが愛おしくなる。

 

 理解できなければこそ、われわれは自問し、そしてまた誰かに問いかけるのだろう。

 

「世界はどんな風に見えてる?」と。

 

 

 

 

*1:謎のホール内でココナとパピカが体験したのは、二人の先輩にあたる女子生徒の記憶と思われる世界だった。

*2:『フリップフラッパーズ』の学術的な元ネタまとめ!だまし絵、ユクスキュルの環世界説など -page6 | まとめまとめ

*3:主体は認識し、対象は認識される。

ノエシスノエマ関係にも似るが、この場合ノエマに当たる客体はアイディアルなものというよりはむしろ物理的なものに近いであろう

*4:”生物”と限定していないあたりが面白い。アミニズムである。

*5:フリップフラッパーズ ピュアイマジネーション 監督:押山清高インタビュー」:フリップフラッパーズ1巻初回特典小冊子 オープニング・エンディング偏,45-46

*6:不要な情報は余計なマネジメントコストを発生させ、混乱を生じさせ、生存には不利に働く。確実な生存行動のためには、必要最低限の情報をコントロールできればいい。これを本書の中では、理想的な「みすぼらしい世界」と言っている。

*7:※筆者注 文脈から考えて、それ=客観的世界、だろう

*8:『フリップフラッパーズ』の学術的な元ネタまとめ!だまし絵、ユクスキュルの環世界説など -page6 | まとめまとめ

*9:何事にも例外は存在する。ある種のホヤは、(特定の条件下ではあるものの)自己と非自己を区別せず、複数個体が癒合する。

「ホヤにおける自己・非自己の認識機構」渡邊浩:動物学雑誌 84(4),275(1975)

「Isolation and characterization of a protochordate histocompatibility locus.」De Tomaso AW et al.:nature 438(7067),437(2005)